◆21世紀芸術論    

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What is the modern art in 21st century?
 
◆21世紀芸術論(試論)


2009/5/2
伊藤佳

<前書>

モダンアートの現在

既にモダンアートは過去のものと思われており、制作された作品がポストモダンであるかどうかすら問われないようになっている。しかも、それらのポストモダンな作品群は、ハイアートとポピュラーアートの境界が存在しないことを前提にしているかのようだ。

確かに、アートにおいてある時期、ハイアートとポピュラーアートの境界に対する挑戦が行われた。しかし、現在では、ポストモダンの名の下に、モダンアートが占めていた重要な場所が忘れ去られている。

21世紀の最初の10年が終ろうとしている今。アートの現況を振り返り、モダンアートに未来はあるのか、モダンアートは終焉するのか、または、既に終焉したのかを問うてみたい。

問題の中心は何か。

作品上の違い以上に、モダンアートとポストモダンの間に横たわるのは、アートに対する見方の違いにある。モダンアートは、その存在価値の中心にアバンギャルド(前衛)という立場があった。現在、モダンアートが力を失い、アートに対しポストモダン的態度が取られるのは、前衛を目指すことが失われたということを意味しているのは明白だ。

ポストモダンという現象がアート全体を覆いつくし、ポストモダンな作品に埋め尽くされているのは、アート作品が大量に生産される現況の帰結であると言えるかもしれない。しかし、それは、アートという概念について考えることの決定的な欠落によって生み出された状態なのだ。

アートと非アート、アート領域の拡張など、モダンアートには前衛的態度が存在したが、ポストモダンは、それらを乗り越えたのではなく、単にそれらを考慮すらしない状況にある。

ポストモダンがもたらしたもの

そのような態度が導き出すのは、思想の混乱というよりも思考の停止、または思考の喪失と言っていい。それによって、ポストモダンは単なるポピュラーアートとしてだけ存在し、モダンアートが持っていたアートの高みを失い、単なる時代の反映でしかなく、時代への強力な影響力もなくしてしまった。

ポストモダンがもたらしたのは、アートを単なる商品として流通することだけだ。商品の価値は、販売量と価格で評価されている。

モダンアートの未来

モダンアートを復興するもの、それは結局のところ見失っている前衛の発見でしかない。多くのアーティストが旧来のジャンルに前衛を見出せず、インスタレーションやディバイスアートやメディアアートなど、新しい領域で新しいアートを構築しようとしている。

しかし、旧来のジャンルの再探索こそ本当に新しいアートの発見をもたらすのではないだろうか。

そこで、私はここで明確に未開拓であると思えるものを指摘しなければいけない。それは”情報”であり、言い方を代えれば”イデアとしての情報”である。

補足

アートが人の想像力によって生み出されると考えるのは自然なことかもしれない。しかし、実際に作品を制作する過程に身を置いた時に体験するのは、制作過程によって想像が喚起され、いかに制作すること自体が創作を進展させるかだ。

単なる人の想像力は限定されており、制作によらない想像力は旧態然として陳腐なものが多い。人は制作過程で起こることに反応して、あるものを選択し、あるものを排除する。その体験の積み重ねこそ、想像力を新たな段階に持ち上げる唯一のものであると私は考えている。


<本論についてのメモランダム>

*下記はこれから書こうとしている3つのジャンルに対するメモである。

■絵画
絵画とは何か
情報 無とノイズ
自己表現しない絵画
受け入れること
絵画というジャンルの未来

TRI-COLOR
http://tri-color.org/tc2003_21st.html

■音楽
音楽の根本は音程ではない
ティンパンアレー LPとEP ラジオと3ミニッツソング
リズムとは何か 繰り返し
記憶 長期記憶、中期記憶、短期記憶、短時間記憶、記憶単位
”今”には幅がある

スロートランス
http://tri-color.org/slowtrance.html

■小説
言語感覚
現実認識
断章的な言語使用
言語空間
ハイパーテキスト
ナレイティブと言語

ハイパーテキストノベル「窓と鏡」
http://tri-color.org/wm/index.html


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